西陣若生軟式野球連盟の歴史 4

■11年目 昭和45年(1970年) 参加8チーム 
 再び8チームとやや復活。
 3回総当り制は続いた。
 
 この年は新加入のいづくらが 小田桐の投打守にわたるパワフルな活躍で優勝。
 初の9割台の勝率を記録した。

  ★昭和45年とは‥
    日本で初の万国博=大阪万国博が千里丘陵で開催された。 前年アポロ11号が月面に着陸し、月の
    石を持ち帰ったが アメリカ館に展示されたそれを見るために長蛇の列ができるというすごさだった。
    プロ野球はジャイアンツの黄金時代、ON全盛でプロ野球人気も 日本経済も上昇一途だった。
    反面、作家三島由紀夫が 自衛隊で割腹自殺するなど あっと驚く事件も発生している。


■12年目 昭和46年(1971年) 参加9チーム 
 軟式野球にシーズンオフはない。
 この年は、毎日リーグとの合同新春トーナメントが1月から開催され、しばらく恒例行事になった。
 残念ながら第1回大会は若生リーグの所属チームは優勝できなかった。
 
 リーグ戦は宮木電機、アポロンズ(現サンデーズ)の参加で9チームになり、3回総当りとまた 充実
 してきた。
 スリッカーズが圧倒的な強さを発揮して独走で優勝した。

■13年目 昭和47年(1972年) 参加10チーム 
 9チーム3回総当りでスタートするもののいきなり青友クラブが解散、実質8チームの戦いとなる。
 
 シーズン最終戦勝った方が優勝という試合で ヤローズが延長9回裏1:0のサヨナラゲームで宮木
 電機(後に舟岡と合併し西友となる)を破り2度目の優勝を飾る。
 
 しかし、3位スリッカーズも勝率7割台、4位いづくら、5位若葉クラブも6割台で首位まで4.5ゲーム差
 と、上位5ちーむは実力紙一重の混戦であった。

■14年目 昭和48年(1973年) 参加10チーム 
 グランド難は相変わらず続いているため、少しでも総試合数を減らすことを配慮して、大学野球リーグ
 と同じ「勝ち点・勝率併用制」を採用した。
 同一チームに2勝すると勝ち点1とし、どちらかが2勝するまで対戦するシステム。3回総当りより総試
 合数は少なくなる。
 
 その結果は、同じ勝ち点8ながら勝率で上回った一秀織物組合がヤローズを抑えて初優勝し、前年
 に山勝一秀として加入後2年目で一気に強豪チームに加わったのである。

■15年目 昭和49年(1974年) 参加11チーム 
 10チームながらこの年も勝ち点制をリーグ戦を行なった。
 この制度に合ったのか またも一秀織物組合が 同じ勝ち点のスリッカーズを上回る勝率を上げて二
 年連続優勝した。
 この年から、スリッカーズのメンバーの中に 野上 昇のなまえが見える 。
 
 また、15周年を迎える機会に 通算優秀成績者を表彰することに決まった。たとえば50勝投手・500
 奪三振投手・200安打・100打点・30ホームラン打者・250試合出場者など‥
 やはり、歴史の長いヤローズやスリッカーズの選手から続々と表彰者が現れ、現在も続いている。


    

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