西陣若生軟式野球連盟の歴史 

それでは 西陣若生軟式野球連盟の歴史をたどってみよう。
なお、この文章は30年目までは三十年史より 抜粋アレンジしたものである。


■1年目 昭和35年(1960年) 参加8チーム 前ページ参照
 1年目のリーグ戦は、8チーム1回総当りというささやかなものであったが、参加した若者たちの胸には
 期待感が大きくふくらんでいた。
 初優勝は、7戦全勝で 高尾潔率いる「技術研究会」が飾った。
  ★昭和35年とは‥
    日本は、60年安保で騒然とした世の中であった。が、プロ野球では大洋ホエールズが 三原マジックで 
    セ・リーグ優勝。絶対不利といわれた日本シリーズでも大毎オリオンズを4タテで下して、ファンをアッと   
    いわせた。 


■2年目 昭和36年(1961年) 参加8チーム
 2年目からは、本格的なリーグ戦が春から秋まで行われた。
 8チーム3回総当りというかなり多い試合数であり、各チームとも月間3試合は消化しなくてはならない
 状 態であった。 そうなると早速グランド難ということになる。
 開会式で使用した北野中学グランドの借用が困難になり、京都御苑のグランドに頼らざるを得なくなっ
 てきた。 
 そのころのグランド確保をするためのエピソードがある。
 御苑球場の受付けは、毎週月曜日の午前8時から先着潤となっていた。 我々は早い順番を確保する
 ため 日曜日の夜から御苑の受付窓口前で毛布にくるまったり、麻雀をしながら夜を明かすこともしば
 しばであっ た。
 こんな努力が認められたのか、その後 何年かはリーグ戦を行う団体が優先的にグランドの使用を割
 り当てていただけるようになっていた。 しかし、後にも抽選でなくてはならないなど グランド確保困難
 時代が やってくる。

 そんな事情もあって、高尾潔が 技術研究会チームを離れて 運営面専門になることを決意。 まだ 
 発足したばかりの若生リーグのために、月1回の例会や、ベース・石灰・ライン引きなどの保管に自宅
 を開放したり、また、グランド確保に奔走するなど、私生活を犠牲にして運営に力を尽くした。

 もちろん、協力を惜しまぬ人もいたが、高尾潔のおかげで若生リーグの軌道が敷かれたことは間違い
 ない。

 リーグ戦は、技術研究会が連覇した。

 ■西京極球場■
  西陣若生軟式野球連盟が、他の連盟に比べて誇れることのひとつに 軟式野球でありながら 年1回
  「西京極球場」でゲームができることである。
  当初は 公式戦が終わった後、表彰式と、各チームから2〜3名ずつ選ばれた選手が 東西に
  分かれてオールスターゲームを行うことが年末の恒例行事になっていた。 
  これも2年目からである。これには 福島滋弥会長の尽力があったことはいうまでもない。


■3年目 昭和37年(1962年) 参加12チーム
 3年目はチーム数も一挙に12チームに増え、順風満帆にスタートしたかに見えるものの 1年目からの
 参加チームは技術研究会と大川織物のみ。 リーグの存続の難しさが伺える。
 心配されていた新加盟のひとつが わずか6試合で脱落する。 急遽、一時参加を見合わせていた京
 都プロダクション(現ヤローズ)がクラブチームとして再参加、チーム数を減らさないように努力した。 
 ヤローズは1年目から現在まで若生リーグに参加し続けている唯一のチームであるが、この年の2ヶ月
 間6試合のブランクがある。
 チーム数が増えたが、棄権や放棄試合も続出、てんやわんやの一年だった。

 さらに、大きなピンチが訪れようとしていた。 高尾潔が 仕事の都合で京都を離れることになったので
 ある。 若生リーグ最初のピンチであり、このとき、2年間分の記録が紛失してしまったのは惜しまれる。
 この危機は、大川勝三と阿部定を中心とした各チームの代表者が結束を固めて 運営に当たることで
 乗り切った。 
 また、この機会に迫間一雄が、リーグの記録の集計と保管を引き受けるきっかけにもなった。

 この年の優勝は、この年1年だけ参加した「白鵬クラブ」がさらっていった。

■4年目 昭和38年(1963年) 参加12チーム
 前年優勝の白鵬クラブがあっさりと脱退するなど、入れ替えも激しく半数以上のチームが代ってしまった。
 新しく参加したチームは、宮島・西展(せいてん)・織友(おりとも)・千本・渡辺・黒潮 などクラブチームが
 大半を占め、チーム数はおちおう12チームとそろったものの2回総当りとなり、総試合数は少なくなって
 いる。

 この年の優勝は、2年目から参加している「若葉クラブ」が初優勝を飾った。

■5年目 昭和39年(1964年) 参加11チーム
 5年目で早くも大記録が誕生した。打撃部門の三冠王と、20勝投手である。
 三冠王は、西展クラブの田中猛選手で、打率 .504 本塁打7本 打点26という驚異的なものであった。
 投手では、西陣イーグルスの采野(うねの)正勝投手が20勝をあげた。 以後、今日まで三冠王も20勝
 投手も誕生していない。
 しかし、優勝は西展でもイーグルスでもなく「柏友クラブ」であった。
 ★昭和39年とは‥
    日本は、繁栄の坂道を一気に駆け上がり 経済大国と言われる時代に入ったころである。
    東海道新幹線が、東京−大阪間が開通し、アジアで初めての東京オリンピックが開催された。
    この年、プロ野球 セ・リーグ優勝は阪神タイガースだった。以来20年間優勝から見放されるのだが‥

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